大切な人が殺されるとして、 誰に殺されるのが一番悲しいだろうか?
一つ思考実験をしよう。
あなたの大切の人を一人だけ、
頭の中に描いてほしい。
そして、その人が誰に殺されるのが一番悲しいだろうか?
真っ赤な他人であればどうだろう?
その悲しみは想像を絶するだろう。
その他人を憎み、苦しみ、そして悲しい。
病気であればどうだろうか?
「もっと何かできたのではないだろうか?」
と考えるだろう。
そして悲しい。
ガンであればどうだろう?
その存在を知った瞬間から、
人生のどん底に突き落とされた気持ちだろう。
やり残したことを懸命にやり切る。
しかし、悲しみが消える事はない。
しかし、これらは本当に一番悲しいのだろうか?
他人であれば、他人を憎み、
裁判なり、自身の手を汚すなりと
復讐する事ができる。
病気であれば、病気を憎み、
他の、家族や同じ病気に苦しむ人、
もしくは、その可能性のある人に対して
救うための行動を起こす事ができる。
ガンであれば、ガンを憎み、
ガン根絶に向けた薬の研究や、
そもそもガンにならないための食事を学ぶなど
その死を無駄にしない活動ができる。
どれも、“原因”に責任転嫁をすることが出来る。
そして、残された「自分」の気持ちはある程度晴れる。
しかし、一つだけ出来ない。
では、大切な人が自分自身を殺したときは?
そう、自殺だ。
大切な人は、なぜ自分を殺したのか?
何か困っていたのか?
あの時のアレは前兆だったのか?
しかし、その時にはもう“原因”は分からない。
人は、その“結果”に対して“原因”を求める。
「○○が“原因“だったのか!」と。
なぜか??
その“原因”に責任転嫁できるからだ。
しかし、責任転嫁を出来ない状況ほど、
傷つき悲しむ。
それも、あくまで「自分が」だ。
ちなみに、命は比較ができないため、
思考実験で考えた。
本来はその悲しみを比べる事は不可能だからだ。
これはどんな状況であれ、
人であれば、多くの事象に当てはまる。
それは、他愛もないケンカや揉め事も含めてだ。
人は自分が傷つく事を一番に恐れ、
その責任が自分でなかった瞬間に、
なぜかホッと安堵する。
しかし、このままでは成長をすることはない。
なぜなら「自身が変化をする必要がない」からだ。
人が人として真に成長する瞬間とは?
何かに責任転嫁することなく、
その痛みを飲む事が出来た瞬間だけだ。