それは“迷う”という事を決断している。
「やろうかやらないか迷うな・・・」
「やれば人生を変えられるのかな?」
「迷っているので一度考えたい」
優柔不断の人、決断力が無いと言われる人、
自分で物事を決定できない人など・・・
彼らは、決断していないのではない。
“迷う”という決断をしているに過ぎない。
そう、決断をしているはずなのに、
決断をしていないという、思い込み。
完全に矛盾した考えなのだ。
「目の前の決断」を決断したと思っていない。
そこで、別の決断を行おうとする。
故に、もっと必要な事に対して決断をすることが出来ないのだ。
では、なぜ人は“迷う”のか?
それは「選択肢」があるからだ。
外食においてメニューを見て悩むのもこの通りだ。
逆にメニューが一つしかない店において、
“迷う”ことさえ出来ない。
そして、人はその「選択肢」において、
必ず“良し悪し”をつける。
もっとなじみのある言葉なら、好き嫌いだ。
ここで、「良し悪し」の基準を決められない時、
“迷う”という決断を行うのだ。
ここで、メニューを眺めて、
「どうしようか・・・」と“迷う”事をしたところで、
実は進展はない。
なぜなら、“迷う“決断をさせているのは
メニューそのものだからだ。
もちろん、答えはない。
“迷い”から脱却するには他の情報や知識が必要だ。
その店の店長や、料理長に聞けば“迷い”からは
いち早く脱却できるだろう。
もちろんバイトの人に聞いたところで、
乏しい情報や知識で終わり、
結局“迷う”結果になる。
しかし、なぜか人は聞くという決断が出来ない。
それは、羞恥心やプライドがストップをかける。
なぜ、ストップをかけるか?
羞恥心や、知らない事に対しての“痛み”を受け入れられないからだ。
しかし、そんな事をしていても、
一向に“迷う”事から解放はされない。
“迷う”事を決断したところで、生み出されるのは、
時間の浪費だけなのだ。
世の中において時間ほど貴重なものはない。
ならば、その羞恥心やプライドを捨て、
自分が知らない事を知ることから始めるべきなのだ。
そう、「無知の知」だ。
いつまでも“迷う”事がしたければ、
いつまでも“迷って”いればイイ。
ただし、少ない情報や知識の中で“迷う”事をして
導き出された答えなど、質の低い大したことのない答えだ。
実は、この結果こそが最大の“痛み“として残り、
後悔という結果につながるのだ。