「”自由”という名の不自由」
「自由になりたい。」
人はよく言います。
では“自由とは何か?”
この質問に対して多くの人はなんと答えるか?
・経済的に困らない状態
・やりたい事をいつでもできる
・時間に拘束されていない
・嫌な人間関係から解放された状態
などなど・・・
多くの答えが出できます。
しかし、本当にこれらを手に入れることができれば
自由なのか?
自分の欲しい物が手に入れば、
自分の理想を掴むことが出来れば、
それは“自由”なのか?
これが“自由”だとすると、
自分の理想を手に届く程度に設定するだけで“自由”を獲得できることになります。
しかし、それは決して臨んだ理想ではなく、
つまり自由ではない。
人が自由になるためには何が必要か?
それは“不自由”です。
人は不自由でなければ、そもそも自由を求めることはありません。
そもそも、自由という概念がなくなります。
金持ちからすれば、欲しい物をいつでも買うことができ、
行きたいところにいつでも行け、やりたい仕事を選択できる。
多くの人が“自由”と考える状態の人達は、更なる“自由”を求めるでしょうか?
“自由”から“自由”を求めることはありません。
あくまで“自由”になるためには“不自由”が必要なのです。
つまり、「今の生活が不自由だ」と認識しなければなりません。
自分が何に対して不自由に感じているのか?
仕事なのか?経済状況か?人間関係か?
自分にとっての“不自由”を認識し、ここから抜け出したとき、
それが初めて“自由”になります。
ただ、自由を掴んだとしても、それはまた何かの“不自由”の元の自由ということも
認識しなければなりません。
会社を辞め、独立をしても資本主義、税金、法律、憲法などなど・・・
待ち構える物は何かの“不自由”。
例え、世界一のお金持ちでさえも、資本主義からは自由にはなれませんから。
「自由という名の不自由」と言えますね・・・