嫌われ者のすゝめ【巨悪の戦略で時代を生き抜く】

「人のため」「世のため」など、 キレイゴトばかり並べてビジネスをしていても人の事なんて幸せにはできない。 このノウハウを信仰する人間は、 他人のためと言いながら、 「自分自身が傷つきたくない」だけだ。 あげく、その事実に気付かない、 もしくは指摘されると認める事も出来ない。 1番の「悪人」はこういった、 考えで商品をお客様に提供している 事実に気付かない愚かな人間だ。 そんな「悪人」をやめて、 真に選ばれる存在になれ!

【失う事への恐れ】

 
 
人は”失う”事を極端に恐れる。
 
 
それはなぜか?
これを説明する前に理解しておくべき事がある。
 
 
それはまず、”失う”ための大前提として、
”得て”いなければならない。
 
 
逆に言えば”得て”いなければ”失う”事ができない。
 
 
例えば、
家庭を”得て”いない人であれば、
家庭を”失う”事はできない。
 
 
そして、人には何も”得て”いない状態がある。
それは、赤ちゃんの時である。
 
 
そして、その「環境」に影響を受けて
たくさんのものを”得て”大人になり、
自我を作り上げていく。
 
 
日本で生まれれば、日本語とその文化を。
その家族のルールや価値観を。
地域の友達や兄弟の。
学校教育や教師の。
社会人になれば会社の。
それぞれの「環境」から”得て”いくのだ。
 
 
極端な例えではあるが、
生まれてから誰にも関わらず、
何も学ばないまま一生終えた場合、
自我は成り立たない。
というより、その人物は
「自身が存在した事の証明」をできない。
つまり「無かった」ことと同じなのだ。
故に、自我が成り立ったかどうかさえわからない。
 
 
話を戻そう。
なぜ、人は”失う”事を極端に恐れるのか?
それは「自身が存在した事の証明」
ができなくなると恐れるからだ。
 
 
人は、最後に死ぬ。
そう、自分自身を”失う”事を知っている。
 
 
だからこそ、多くを”得る”という行為をする。
学びを”得て”、多くの稼ぎを”得て”、
その稼ぎで家族を守り人に多くを与える。
 
 
人が他人に優しくするのは、
自分を認知してもらうためだ。
そう「自身が存在した事の証明」をしようとするため。
 
 
人が子孫繁栄を本能的に臨む事も、
今までの偉人が、名を残す事にこだわるのも、
葬式に多くの参列者が集まっているのも、
その人の「自身が存在した事の証明」をしているに過ぎない。
 
 
実際には、過去の偉人が生きた時代には、
数多の人が生活をしているに関わらず、
書物等で残っていない限り、一般の人が
「存在した証明」をする事が出来ない。
 
 
一番古い時代で中国の「殷」が、
書物として「存在した証明」が出来ているが、
それ以前は神話レベルで証明ができない。
つまり「無い事」と同じなのである。
 
 
故に、一度”得た”ものを
”失う”事を極端に恐れるのだ。
「自身の存在の証明」が出来なくなるからだ。
 
 
しかし皮肉にも、昨今の人が”得た”もので
つくられた自我とは、あまりに多くの人が手にしている。
大衆的で、普通で、一般で、常識的で・・・・・
 
 
こういったものを”得た”ところで、
その他大勢とそんなに大差がないため、
「証明しづらい」のである。 
 
 
決してこれが悪いわけではない。
 
 
ただし、何らかの成果や結果を
残そうと考えているのであれば、
その”得た”ものでは
成果や結果を出す事は出来ない。
 
 
今までで”得た”モノでは、成長も成果も結果も
手にする事ができない。
その”得た”ものにいつまでも、
すがりついて終わるのがオチだろう。
「きっとうまくいく・・・・」と信じて。
 
 
もし、今までに”得た”ものにこだわっても、
誰からも選ばれなければ、
「無かったことと同じ」なのだ。
 
 
もし、今以上の成長、成果、結果を
望んでいるのであれば、
まず、”失う”事から始めなければならない。
 
 
そう、過去に”得た”
学び、自信、プライド、成果など・・・
捨て去る事から始めなければならない。
 
 
そして、大衆的でも、一般でも普通でもない、
新たなモノを”得て”、成長し、成果・結果を出し、
「自身の存在の証明」をする必要があるのだ。
 
 
大人は”得た”モノでいっぱいである。
いっぱいの中には何も入れられない。
だからこそ、”失う”事から始めなければならない。
しかし、”失う”事を恐れるあまりに、
本当に”得た”いものを得られないのは
本末転倒なのだ。

 
 

 

”結果”に対する”原因”を知ってどうする?

 
 
 
・うまくいかなのには、絶対に”原因”がある!
・成果を出すためには、絶対に”原因”がある!
 
 
この様に語る人は多い。
逆に言えば、
”原因”が分かれば、”結果”を変えられる。
という事。
 
 
”原因と結果の法則”である。
 
 
起こり得た”結果”に対して”原因”を求める行為。
なぜ、この法則が根強く支持されるのか?
次の通り、演繹的な三段論法であらわすと、
 
 
花が咲くには、芽を出す必要がある。
芽を出すには、タネを蒔く必要がある。
その、タネを蒔く事しなければ花も咲かない。
 
 
この様に、
花が咲く(結果)にはタネを蒔く(原因)が
必要不可欠であると言う事。
 
 
では、これは本当なのだろうか?
 
 
例えば、
ガンになったという”結果”に対して、
どのような”原因”があるだろうか?
 
 
食事だろうか?
運動だろうか?
添加物だろうか?
薬だろうか?
放射能だろうか?
ストレスを与える、
家庭だろうか?
会社だろうか?
プライベートだろうか?
 
 
ではこれらのうち、どれか一つを
もしくは、いくつかを”原因”とし、
それを改善していけば、
ガンという”結果”は変化したのだろうか?
はたまた、これから変化するのだろうか?
 
 
人によっては、上記のすべての因子が
あてはまる人でも、ガンにならない人もいる。
逆にすべての因子があてはまらない人でも、
ガンになる人はいる。
 
 
つまり、その”結果”に対しての”原因”は、
どれか特定する事はできない。
もし、それが原因である事を証明するには、
「if」の世界の自分が必要である。
「もし、原因を変えた場合の自分」のような、
並行世界はアニメやSFの話である。
 
 
そもそもであるが、”原因”も見方を変えれば
一つの”結果”である。
つまり、”原因”の”原因”は?
その”原因”の”原因”の原因”の”原因”は・・・・
さて?
これを求める事に一体なんの意味があるのだろうか?
 
  
そして、その証明できないものを”原因”としても、
今後の”結果”にどのように影響を及ぼすかも分からない。
 
  
では、なぜ人は”原因”を求めるのか?
  
 
”原因”がある事で人は、安心する。
「そうか!今という結果は、それが原因だったからか!」
と、納得をしたいだけである。
 
 
この様に、何かを”原因”とする行為は
その”原因”に対して責任転嫁をしているに過ぎない。
「仕方がなかった」と、思いたいだけである。
 
 
そして、セッションをする仕事の人において・・・
 
 
ヒアリングを重視する人達の多くは、
会話8割の「傾聴」において、
その過去(原因)を根ほり葉ほり聞き出し、
今という(結果)がどう作られたか明確にする。
 
 
そして、彼らは最後に一言この様に言う。
「あなたのこれからの未来に過去(原因)は関係ない!」
と、力強く語る。
 
 
だったら関係のない過去など、
初めから聞く必要などないだろう。
 
 
”原因”を求める事は目的ではない。
手にしたい”結果”があくまで目的である。
そして、これからの手にしたい”結果”は、
その今までの”原因”と関係はない。
 
 
”原因と結果の法則”は、
過去とそれが作り上げた今を見ているだけだ。
”原因”を知り安心や納得をし得ても、
目的を達成する事とは何の関係もない。

【”覚悟”を決めても何も変わらない】

 
 
”覚悟”を決めろ!
そうすれば人生は変わる!
決めるから成功できる!
 
 
昨今よく聞く言葉である。
 
 
成功者は口を揃えて、熱く語る。
指導者も先んずはと、強く語る。
成功哲学の本を読めば、
これでもかと言わんばかりに書かれている。
 
 
裏を返せば、
「”覚悟”が決められない者は、成功しない。」
と、解釈ができる。
 
 
これは本当だろうか?
 
 
世の中の多くの人が、「成功」や「幸せ」を望む。
 
 
自分の人生をより豊かにするために。
家族をもっと楽しませるために。
自身の老後のことを心配したために。
 
 
「今のままではいけない!」
と感じ、新たなビジネスで稼いでいこうとする。
 
 
今の世の中を考えれば、
とても自然な流れである。
 
 
この様に”覚悟”を決めている人は多い。
 
 
そう彼らは、
自分の人生を真剣に考えている。
フザケて、ビジネスをしている人達など
ほとんど存在しない。
 
 
しかし、”覚悟”を決めているのに、
成果はでない。結果がついてこない。
 
 
これは、なぜだろう?
 
 
成功者や指導者からすれば、
「まだ、”覚悟”が足らない!」
「”覚悟”が弱い!」
と、語るであろう。
 
 
では、その”覚悟”の強さが証明されるのは
一体いつなのだろうか?
 
 
それは、結果が出た時のみだである。
 
 
その、”覚悟”の強さとは、
結果に依存している。
結果の出た人だけが、”覚悟”の強い人とされる。
それ以外は、等しく”覚悟”が弱いのだ。
 
 
であるならば、初めに”覚悟”を決める意味がない。
なぜなら、「結果論」だからだ。
 
 
どんな過程であっても、その”覚悟”は
結果に依存している以上は、
スタート時にどれだけ”覚悟”を決めても、
その過程をどれだけ努力しても証明にはならない。
 
 
もし、周りが「よくやった」と言っても、
本人は納得しないだろう。
 
 
別の例えで考えてみよう。
 
 
仕事を探しているAとBがいるとしよう。
 
 
Aの場合は、今後の将来を考えて、
転職をしたいと考えている。
そのためにもっと条件の良い仕事を
”覚悟を決めて”探している。
 
 
Bの場合は、昨日会社は倒産した。
今月の給料もない。仕事もない。
条件がどうこう言っていられる状態ではなく、
”覚悟を決めて”探している。
 
 
二人とも仕事を探している事実は同じである。
”覚悟を決めている”のも共通している。
唯一違う事は、「環境」である。
 
 
Aの場合は、探さなくても最低限の生活ができる。
Bの場合は、探さなくては最低限の生活もできない。
どちらが、新たな仕事を
いち早く手にするかは、語るまでもない。
 
 
つまり”覚悟を決める”かどうかは、
本質的な問題では無い。
 
 
では、なぜ成功者や指導者は
口を揃えて、”覚悟”を決める事にこだわるのだろうか?
 
 
成功者や指導者は、成果を出すために
”覚悟”を決めたと思い込んでいるが、
そうではない。
 
 
「あのままでは、人生が終わると思った」
「このままの人生は絶対に嫌だった」
「このままの収入だったら今後はないと感じた」
と、当時を振り返って語る。
 
 
そう、「環境」に気付いているのだ。
そして、次に行うのは、”覚悟”決めたのではない。
「環境」を変えたのだ。
 
 
”覚悟”は決めるのではない。
”覚悟”は決まるのだ。
 
 
”覚悟”はその「環境」に依存して作り上げられる。
 
 
”覚悟”を決めても意味などない。
”覚悟”が決まる「環境」を選択するのだ。
 
 

 
 

【その”正しさ”はただの「虚像」】

 
 
人生において、
「歩む道を”間違えた”」
「あの選択は”間違えていた”」
「人生に”迷っている”」
 
 
などなど・・・・
 
 
今までの過去に、後悔をしている人。
今の現状に、不満を覚えている人。
これからの未来に、不安を感じている人。
 
 
こういった人達は、多く存在する。
また、こういったニーズに対して、
多くのビジネスも存在する。
 
 
「正しい選択を共にしよう!」と、
自身のビジネスに勧誘する人。
 
 
「迷わないように導こう!」と、
成功哲学をベースとしたコーチ・コンサル
を提供する人。
 
 
こういったビジネスは時代の流れとして、
自然なものなので、特に問題はないだろう。
 
 
しかし、疑問も多く残る。
 
 
何かに対して”間違い”と感じるには、
そもそも、何か”正しい”モノを認識する必要がある。
”間違い”に気付いた人達は、
何を”正しい”としているのか?
そして、それは本当に”正しい”のかどうか?
 
 
また、そんな”迷える”人達を自信満々に導く人達は、
その伝える内容、具体性、ノウハウが
本当に”正しく”導けるものと認識しているのか?
また、その根拠とはなんだろうか?
 
 
まず、”間違い”に気付いた人達について・・・・
その”間違い”を認識するに必要不可欠な”正しさ”だが、
基本的には自分自身より素敵な生活をしている人を
見て”正しさ”とする事が多い。
このように、素敵な他人を”正しさ”とすると、
今を作り上げた過去を含めて、自分は”間違い”
となってしまう。
 
 
まずは、この仕組みに気付いた上で、
もう一度自身が”間違い”なのか?
その”正しさ”は与えられていないか?
考える余地はあるだろう。
もちろん、比較する事が悪いことではない。
しっかりと比較をした上での判断が必要なのだ。
 
 
そして、”迷える”人達を導く人達について・・・
その学んだ成功哲学について考えた事はあるだろか?
その読んだ本について疑問を持った事はあるだろうか?
 
 
一つ例えをあげよう。
マズローの「欲求5段階説」だが、
少し考えれば矛盾に気付く事ができる。
 
 

第一段階:生理の欲求
から始まり、
第五段階:自己実現の欲求
に行き着く。
これらを段階的に満たしていけば、
次へ次へと高次の欲求へと進むとい考えだ。
 
 
しかし、少なくない数の成功者は、
成果を上げたその先に、
セックスやドラッグに溺れる事を
我々は少なからず知っている。
セックスは第一段階の
生理の欲求に該当する。
 
 
第一段階に満たされなければ、
段階的に高次の欲求を満たせない
と理論づけているが、
高次の欲求を満たせたとしても、
一番底である低次の欲求は
満たせていない状態などいくらでもある。
 
 
そもそも、この理論は実証実験で
この仮説を説明できる結果は得られていない。
これは世間を見ても理解ができる。
なぜなら、
この理論を取り入れた人で、
成功者の割合よい、
失敗者の割合の方が圧倒的に多いからだ。
 
 
成功者である数%を見ているのは
愚の骨頂である。
 
 
あくまで、一例であり、
マズローの理論だけを否定しているわけではない。
疑える余地がある事を証明しただけである。
 
 
このように、そのノウハウや学びは
疑うに値する存在なのだ。
 
 
こんな事にも気付けず、
「私の知識、学び、教えは正しい!」
「人を導く事ができる!」
「人々を救うのだ!
なんてのは、ただの思い込みに過ぎない。
そして、導ける確率も極めて低い。
 
 
本来”正しさ”や”間違い”は
その人それぞれが作り上げた
「虚像」に過ぎない。
 
 
それでもその「虚像」を
「実像」に変える覚悟があるのなら、
甘んじて今の自分を”間違い”と認めるべきだろう。
ただし、世の中に転がっている
”間違い”だらけのノウハウに答えを求める事だけは、
オススメはしない。

【もし、ドラえもんが現れたら・・・?】

 
 
 
人は”将来”に、”未来”に「不安」を感じる。
なぜなら、何が起こるか”分からない”からだ。
 
 
逆に日々の何気ない日常に対して
「不安」を感じる事は滅多にない。
なぜなら、”これから”も続くと思っているからだ。
つまり、
”将来”・”未来”に起こる事が予測出来ている状態。
”分かっているつもり”になっているからだ。
もちろん、現実にこの保証はない。
 
 
この様に人は「不安」を感じる。
ちなみに、人が死ぬ事に対して「不安」を感じるのは、
死ぬという事実が”分かっている”からではない。
死んだ後がどうなるのか?
”分からない”から「不安」になる。
 
 
そして、それを払拭したのが、
”宗教”である。
”死後の世界”を作り上げて、
死んだ後どうなるのか?という「不安」を
払拭しているのだ。
 
 
この様に、”分からない”事に対して
「不安」を感じる。
 
 
ここからは「if」の話である。
 
 
もし、あなたの目の前に
ドラえもんが現れ、タイムマシンで
過去に戻る事ができたら。
過去の自分に何を伝えたいだろうか?
 
 
おそらく多くの思いや考え、
選択についてアドバイス
したくて、したくて、したくて
たまらないだろう。
伝えるかどうかは別として・・・・
 
 
では、少し見方を変えてみよう。
 
 
もし、未来の自分が目の前に現れて、
これから起こる出来事を語ろうとしたら?
その話を聞きたくなるだろうか?
 
 
おそらく、「不安」を払拭したい人は
聞きたくてたまらないだろう。
 
 
では、もし聞く事が出来れば、
本当に「不安」は払拭できるのだろうか?
 
 
これから起こる事が分かっている状態。
最初は新鮮で楽しいかもしれないが、
慣れてくれば、ただただ、
淡々と事前に知った出来事が起こるだけ。
 
 
ここに喜びや感動はあるのだろうか?
おそらく、ないだろう。
 
 
こんな生活に嫌気がさしたら、
未来の自分に教えてもらった選択とは
違う選択をするだろう。
 
 
すると、また違う”未来”・”将来”がやってくる。
ここで、セットでついてくるもの。
「不安」だ。
 
 
人は「不安」を嫌っているのだろうか?
しかし「不安」がなくなると、
途端につまらない人生になる。
しかし、「不安」を好きとは言い切れない。
 
 
もちろん「if」の話なので、
現実にはありえない話だ。
思考実験である。
 
 
もちろん、「不安」を払拭する事自体は不可能である。
そして払拭する事のできない「不安」を払拭しようとする事は
もっと愚かな行為と言えるだろう。

【自分を信じるな!自分を許すな!】 

 
 
昨今、よく見かける言葉だ。
 
 
・自分を信じろ!
・自分を許す事からはじめろ!
 
 
そして、
・自分を嫌ってはいけない
・自分を責めてはいけない
 
 
などと、声を大にして語る人を見かける。
 
 
こういった考えは、自分を大事にする考えである。
自分が幸せでなければ、
他人を幸せにする事ができない。
と。
 
 
なぜ、こういった概念が流行っているのか?
それは、日本の文化が、「謙虚」「他人のため」など、
自分を優先するより、自分を犠牲にする事が
美徳とされてきたからだ。
 
 
しかし、この文化に対して疑問を感じる人も多くなった。
時代の流れもあり、日本ではあるが、
多くの外国文化が入ってくるようになった。
そこで、自分を大事にする考えが生まれたのだろう。
 
 
では、一体これは本当なのだろうか?
 
 
現状の自分を信じる事、許す事は
本当に意味があるのか?
 
 
こういった、考えや概念を取り入れようとする人は、
自分自身を「変化させたい」「成長させたい」
という思いや、経験があって取り入れようとする。
 
 
そう、
現状に不満があり・・・・
現状が嫌で・・・・
現状が最低だと思い・・・
 
 
だからこそ、考え、行動をしようとしている。
 
 
ここで疑問がある。
 
 
そんな自分を信じていいのか?
そんな自分を許していいのか?
 
 
不満で、嫌で、最低で・・・・
一体何を信じるのか?
何を許す事ができるのだろうか?
 
 
そして、この理論には根本的な矛盾が潜んでいる。
 
 
「自分を信じろ!」と語る人を信じているだけであり、
決して自分を信じているわけではない。
 
 
つまり”他信”を行なっているのだ。
 
 
結論から言って、
自分のことなど一ミリも信じていない。
 
 
強く!熱く!自信満々に
「自分を信じろ!」
と、語る人を信じているだけなのだ。

結局自分を信じることも、
許すことも出来ていないのだ。
 
 
憧れた”他人を信じた”だけである。
ゆえに”他信”なのだ。
 
 
つまり、「自分を信じろ!」
と語る人がそもそも矛盾の根源なのだ。
 
 
もし、本当に変化を求めるのなら・・・
もし、本当に成長をしたいのなら・・・
 
 
絶対に自分を許してはいけない。
クソな自分を自覚し、ダメな自分を許さない覚悟をもち、
「行動」し「変化」し「成長」した結果、
そんな自分を初めて「信じる」ことができ、
「許す」ことができる。
 
 
初めから「自分を信じる」意味など全くない。
むしろ変化や成長の妨げにさえなる。

 
そんな根本的な矛盾にも気付かず、
「自分に自信をもて!」
と、語る人は己の経験を
他人に押し付けているだけだろう。
 
 
経験と観察の結果を基に導いたとしても、
己だけという名の統計に意味などない。
 
 
そして、付け加えておこう。
 
 
成果を出した人。
結果を出した人。
が一番最初に語る言葉。
 
 
「あの時の自分が嫌だった。」
「あの時の自分のままでは
 未来がないと思った。」
 
 
と、語る人が多い。
成果や結果を出した人の話でも
もはや証明されている。
 
 
幸せからは幸せを望まない。
不幸と感じて、幸せを望むのだ。

【健康のためなら死ねる・・・】 

 


健康オタクをたまに見かける。


 
無農薬野菜やオーガニック野菜を好み、
栄養価の高いスーパーフードを好み、
ファスティングドリンクなどを好み・・・



また、
コンビニ弁当や添加物を嫌い、
動物性タンパク質や乳製品を嫌い、
農薬野菜や、遺伝子組み換えを嫌い・・・



何を語るかと思えば、
やれ「〇〇は身体に悪い!」
やれ「〇〇は身体に良い!」
やれ「西洋医学はあーだ」
やれ「東洋医学がこーだ」
と・・・



こういった人達は根本的に間違えていることがある。
というより、学びに偏りがありすぎる。



まず、
TVやCMで流れている情報に偏りがある事は事実である。
しかし、彼らが学んでいる情報も偏りまくっている
その事実に気づくべきなのだ。



「コンビニ弁当は食べ物ではない!」
「マーガリンはプラスチックに近い!」
「添加物はガンなどの病気になる!」



という風に、何かに対して、「悪」を定義しているが、
これらは本当に「悪」なのか?



大震災や災害の時にはこういった保存性の高い食材は
極めて役にたっている。
これらがなければどれだけの命がなくなっただろうか?



そもそもこれら「悪」とされる
コンビニ弁当や添加物を作ったのは、
”人間”なのだ。
そして、これらを代謝できず、解毒できず、
エネルギーとして使えない”人間”の体こそが
最大の「悪」なのだ。



あたかも、自分たち”人間”に合わないものは
全て「悪」かのように語っているが、
こういった食材に一切の罪はない。



強いて言うならこれらを作り上げた
”人間”に罪があり「悪」と言えるだろう。



そして「食事の改善」などを指導する人もいる。
”改善”をするためには、元々の”ベースの状態”が必要となる。
そもそもであるが、どこを”ベースの状態”としているのか?
そして、それはなぜ”ベースの状態”と言えるのか?



百歩譲ってベースがあるとしよう。
しかし、それは人それぞれ違う。
なのに、指導する内容はどの人に対しても同じ内容だ。



つまり、何が合うかどうかもわからないのに、
見直す事も改善することもできない。



そして、はっきり言おう。



いくら世間一般的な「身体に良い食事」をしても、
必ず”死ぬ”のだ。
逆にどれだけ「身体に悪い食事」をしても、
必ず”死ぬ”。



どちらに良し悪しはない。
しかしその生活で本当に満足なのかどうか?
健康であるかどうかは、
人生を良くするための手段であり、
目的ではないのだ。



そして、最後に・・・・



「健康」という概念自体が「不健康」を作り出している。
「健康」が無ければ、「不健康」も存在できない。



「健康」になりましょう!と言って、
誰が一番得し、利益を得られるか?
語らずとも分かる事だろう。



そして、「健康」と「不健康」のボーダーラインは存在しない。



そう、我々”人間”は「健康」という概念に踊らされているのだ。
「不健康」になれば、「健康」になる事を望み・・・・
「健康」になれば「不健康」になる事を恐れ・・・
そのために、多くのお金が、人が動く。



これで、「健康」の正体が少しは見えてきただろう。



そして、この「健康」という言葉いくらでも置き換えることができる。
「幸せ」「成功」「楽しい」などなど・・・・



いったいいつまで踊らされるのか・・・?
そろそろ気づく頃ではないだろうか?