嫌われ者のすゝめ【巨悪の戦略で時代を生き抜く】

「人のため」「世のため」など、 キレイゴトばかり並べてビジネスをしていても人の事なんて幸せにはできない。 このノウハウを信仰する人間は、 他人のためと言いながら、 「自分自身が傷つきたくない」だけだ。 あげく、その事実に気付かない、 もしくは指摘されると認める事も出来ない。 1番の「悪人」はこういった、 考えで商品をお客様に提供している 事実に気付かない愚かな人間だ。 そんな「悪人」をやめて、 真に選ばれる存在になれ!

【”好き嫌い”で判断する愚かさ】

 
 
「好きな事を仕事にしよう」
「好きなものを大事にしよう」
最近の流行りである。
 
 
逆に考えれば
「嫌いな仕事はすぐにやめよう」
「嫌いなものは大事にしないようにしよう」
ということになる。
 
 
多くの経営者から成功者、
有名人まで語っている。
 
 
”好き嫌い”で物事を判断する。
本当にこの判断基準でよいのだろうか?
 
 
まず、”好き嫌い”の基準がどのようにできるか?
 
 
人は生まれながらに
”好き”や”嫌い”の判断基準はない。
その育った環境で決まる。
 
 
例えば、AKB48を好きな人は、
生まれながらにAKB48が好きだったか?
そうではない。
他のアイドルにはない宣伝活動により、
知名度が上がり、TVやCMによく露出するようになれば、
アイドル好きでなくても、その存在を認知する。
身近な人がファンになれば気がつくと、
”好き”になっている。
もしくは、疎ましく思い”嫌い”になる。
 
 
属している文化や、家庭環境により
その判断基準は大きく影響を受ける。
 
 
逆に生まれながらにその判断基準があるとすれば、
その判断基準は「事前に用意されている」事になる。
しかし、判断基準など時の流れにより変化する。
子どもの頃に好きだったものが、
大人になってもずっと好きか?とはならない。
 
 
このように”好き嫌い”の判断基準は決まる。
 
 
そしてこの”好き嫌い”は日内変動である。
 
 
夫婦やカップルをイメージしてほしい。
朝起きて、喧嘩をしたとき。
相手のことは”嫌い”になる。
しかし、夜に花束を買って
「朝はごめんね」と言われた場合、
多くの人は相手の事を”好き”になる。
 
 
仕事でも同じ事が言える。
最初は嫌だった仕事も、やり続けていると
その仕事に誇りをもったり、意味を見出す。
つまり、”好き”になる。
また、その仕事に違和感を持てば、
”嫌い”にすり替わる。
 
 
では、最近の流行りの”好き嫌い”で
物事を判断するとどうなるか?
 
 
”好き嫌い”で判断をしていては、
何も進まない。
目的や目標、成果や結果を手にしたいはずが、
いちいち”好き嫌い”で動きにムラがあっては、
いつまでたっても、進まない。
 
 
つまり”好き嫌い”という判断基準は
邪魔な存在でしかない。
というより、そんなもので判断しているのは、
自分のことしか考えていない事の証明。
いつでも自己都合なのだ。
 
 
そこには必ず自分以外の他人が存在する。
パートナーやビジネス仲間、クライアント
お客様、見込み客など・・・
 
 
そこに己の”好き嫌い”を押し付ける愚かさを
認識すべきだろう。
 
 
むしろ、目的や目標を達成するためなら、
”嫌い”なものでも取り入れる「覚悟」が
必要になってくる。
 
 
その”好き嫌い”という判断基準は
ただの、わがままに過ぎないのだ。
 
 
また、コーチやコンサルタントで、
「好きな事だけをしよう!」
「好きを仕事にしよう!」
なんて、愚かな事を語っている人が
多く存在する。
 
 
自身が何を言っているのか、
おそらく理解出来ていないのだろう。
その言葉の危険性を理解出来ていない
時点で信用に値しない。
 
  
そんなもので周りの他人を
不幸にしている場合ではない。
 
  
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〜巨悪の戦略コーチング〜
 だーやま
 
 
・何か悩み事がある。
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・今やっている行動は本当に大丈夫なのか?
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【”後悔”のない選択などない】



「”後悔”のない人生を送ろう」
 
 
こういったフレーズの話は最近よく聞く。
 
 
TV、CMでもよく見る。
セミナーや講座のキャッチコピーでも
セリフかと思うくらい見る。
本などの書籍でも見る。
 
 
曰く、
「今のままの選択では、人生を後悔する」
「選択を間違えれば人生転落する」
 
 
では、”後悔”をしない事はできるのだろうか?
 
 
まず、”後悔”とは何でできるか?
 
 
本来、”後悔”をするためには、
選択を
”した場合の自分”と、
”しなかった場合の自分”との
2通りの自分を比較する必要がある。
しかし、このような並行世界は存在しない。
 
 
多くの人は
「あの時〇〇を選択していたらどうなっていただろう?」
もしくは、
「あの時〇〇を選択していたら、もっと良くなっていたのか?」
と、並行世界の自分と比べる人がいるが・・・・
 
 
これは、本来比較できない比較である。
なぜなら並行世界を証明できないからである。
 
 
「もしあの時に逆の選択をしていたら・・・」
なんてのは、想像上の世界であり、
存在することはできない。
 
 
では、”後悔”をしないとはどう言う状態か?
それは、”選択肢”がない状態である。
 
 
多くの人は、自分が「人」であることに
後悔をするだろうか?
また、自分が「男」もしくは「女」
であることに後悔をするだろうか?
全く存在しないとは言えないが、
ほとんどが、後悔をしない。
 
 
なぜなら基本的に”選択の余地”がないからだ。
 
 
つまり”選択肢”を与えること、教えることが
その行為自体が”後悔”の始まりなのだ。
 
 
何も知らなければ”後悔”をすることができない。
 
 
そして、今の世の中は”情報社会”である。
そういった意味では、
”後悔”しないということはできない。
 
 
また世の中には、良かれと思って
なんでもかんでも話したり、
伝えたりする人がいる。
しかし、その行為は聞く相手に良い情報と共に
”後悔”の選択を提供しているのだ。
 
 
多くのビジネスをしている人達は
”後悔”をしないために、
他人に「選択」を提供する。
「幸せになろう」
「人生をよくしよう」
「楽しく過ごそう」
「一緒に稼ごう」などなど・・・・
言葉巧みにその「選択」を提供する。
 
 
しかし”後悔”のない「選択」などは存在しない。
その「選択」自体が”後悔”の根源なのだ。
 
 
それでも、後悔という
「選択」を提供をする覚悟があるのだろうか?
 
 
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〜巨悪の戦略コーチング〜
 だーやま
 
 
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【大丈夫・・・?】

 
 
”大丈夫”
 
 
本当によく聞く言葉である。
 
 
「きっとよくなるよ。大丈夫」
「やり続ければ成果が出る。大丈夫」
「心配しなくてもいいよ。大丈夫」
 
 
一体、”大丈夫”とはなんだろうか?
 
 
それは、ただ「安心したい」だけである。
では、安心のその先に何があるのか?
 
 
思考停止だ。
安心した瞬間から思考は停止する。
 
 
そもそも、この不安しかない世の中において、
安心などする意味などない。
人は安心すると考えることをやめる。
安心すれば考える必要がないからだ。
 
 
このように語ると、
「そんなことはない!」
「一度気持ちを落ち着かせて考える事ができる!」
「”大丈夫”は必要な言葉だ!」
なんて聞こえて来きそうだが。
 
 
少し考えてみよう。
乱れる気持ちがあるのは、
そもそもに”大丈夫”という気持ちを
持ち続けて来た結果でしかない。
「”大丈夫”である」ことが大前提な思考である。
だから、わざわざ落ち着かせなければならないのだ。
 
 
必要なことは、この不安定な世の中で
気持ちを乱すことなく、冷静に思考できること。
 
 
「きっと大丈夫」
という、愚かな希望を押し付ける。
「きっとうまくいく」
と、神頼みのレベルに成り下がる。
 
 
この様に語る人ほどアテにならない。
それが、コーチやコンサルタントなどの、
人を導く仕事であれば絶望的だろう。
 
 
また、この様な希望をもつ人々も
今すぐこの言葉を使う事をやめるべきである。
 
 
”大丈夫”なものなど、何も存在しない。
我々人は「”大丈夫”でない」ことを
大前提で考えなければいつでも思考が停止する。
 
 
思考できない人にこれからの時代を
生き残っていく事はできない。
 
 
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〜巨悪の戦略コーチング〜
 だーやまです。
 
 
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【”価値”の提供という暴力】

 
 
人は”価値”を感じなければ、
それを「必要」とすることはない。
 
 
ビジネスや商品ではわかりやすいだろう。
ブランドが好きな人はそれに”価値”を感じる。
興味がない人は”価値”は皆無である。
 
 
恋愛や夫婦、友人などの
対人関係においても同じである。
好きだったり、タイプであったり。
また、心を許せたり、優しかったりと。
 
 
モノや人、環境、学びなど・・・・
”価値”を感じるから初めて「必要」となる。
 
 
では”価値”とはなんだろうか?
この”価値”が何かわからなければ、
自身にとって何が「必要」なのかもわからなければ、
相手にも「必要」と感じてもらう事はできない。
 
 
こうなると、ビジネスでは商品は売れないし、
対人関係においては、自身を選んでもらう事はない。
 
 
ちなみに世の中の多くの人が勘違いしている事がある。
「”価値”は足して足して足しまくる」
「”価値”は強みや好きなものを提供をする」
「ダイヤをプレゼントすれば喜んでもらえるだろう」
「サプライズをすれば必ず喜ぶはずだ」
など・・・
 
 
完全に”価値”を勘違いしている。
例えば、
”価値”をいくら足しても、それに”価値”を
見出しているのは、自分だけである。
他にも、
「相手のニーズを引き出してそれに見合った”価値”を提供する」
といった考えも、その”価値”を必要に感じさせるように
誘導尋問しているに過ぎない。
また、
ダイヤをプレゼントすればきっと喜んでくれる!
と、思ってるのは「喜ぶ顔がみたい」という
見返りありきなのだ。
 
 
こういった考えの人達は、本質的に
「相手のことなど微塵も考えていない」
のである。
 
 
つまり、”価値”を「提供」してはならないのだ。
”価値”を「提供」する事。
それは言い換えれば
”価値”の押し付けである。
 
 
こういった勘違いをしている人達は、
自分の主観による良し悪しだけで物事を判断しているのだ。
 
 
世の中の人が皆ブランドモノや宝石が好きなわけではない。
世の中の人が皆美味しいモノや高級料理が好きではない。
世の中の人が皆美容や健康になりたいわけではない。
世の中の人が皆稼いだり自由になりたいわけではない。
 
 
なぜ自分が”価値”を感じれば、他人も同じように
”価値”を感じるという勘違いが起こるのか?
 
 
「人は分かり合える」という、
愚かな希望や思い込みから勘違いが生まれる。
 
 
人が分かり合えるなら、
ケンカも揉め事も戦争も起こらない。
そうなれば、法律も決まり事も、
ルールも必要ない。
 
 
しかし、世の中には数え切れないほどの
ルールに縛られている。
 
 
それは、「人は分かり合えない」
という、事実があるからである。
 
 
そこで無闇に傷つけ合わないために
ルールがあるのだ。
 
 
では、一体”価値”とはなんなのだろうか?
これを理解せずにまだ”価値”を提供するのか?
 
 
あまりに愚かで危険な思考である。
 
 
答えることができず、意味も理解できない
その”価値”を提供しようとしているからだ。
 
 
「なんかわからんけど、”価値”があるねん!」
と、言っているに過ぎない。
 
 
その”価値”の押し付けによって、
どれだけの他人が傷つき迷惑をしているか
認識していない。
 
 
そして、それを行う当人は
100%の善意で”価値”の提供という
押し付けをするため、いつまでも
善人気取りでいるのだろう。
最大の悪人であることに気づかずに・・・・
 
 

【人の上に人は立つ】

 
 
人は、自分が”賢者”でありたいと願う。
人は、自分が他人より”優れていたい”と願う。
人は、自分が人より”好かれていたい”と願う。
 
 
そう、人は他人と比べる事をする。
そうでしか”価値”を見出せないからだ。
故に、人の上に立つ。
 
 
ちなみに「他人と比べるのはよくない」と、
語る人をよく見かける。
 
 
曰く、
「生きているだけで人は”価値”がある」と。
 
 
これは本当だろうか?
「もし」ではあるが、
自分の家族を殺した人に対しても
同じ事が言えるだろうか?
”価値”ある家族を殺したその人にも
”価値”がある!と言い切れるだろうか?
 
 
もっとシンプルに考えれば、
”価値”があるモノが価値”あるモノを
消す事はどう説明するのか?
 
 
そして、「比べるのはよくない」と語る人は
おそらく気付いていないのだろう。
 
 
「他人と比べるのはよくない」
という考えは、
「他人と比べるのは良い事」
という考えの人達と、
比べていることを。
 
 
そう、
「比べることはよくない」と、
何かと比べて語っているのだ。
「良し悪し」という言葉を使っている時点で、
もはや比べている。
 
 
また、他人ではなく、
「過去の自分と比べる事が大事だ」
と語る人もよく見かける。
 
 
しかしその状態だと、
「自分一人の世界」を生きている事になる。
他人と関わっていく必要があるこの世界において、
矛盾しており、大いに迷惑な考えである。
自分の正しさだけを押し付ける結果になるからだ。
 
 
「私はこれだけ成長した!」
「私はこんなに優秀だった!」
「私は・・・私は・・・私は・・・」
 
 
よっぽどの他人好きでなければ、
耳障りな話だ。
そんな自信満々な姿を追いかける人も多いが、
ごく一部である。
 
 
結果的には、
「他人の事など考えていない」
のだ。
「他人の事を考える」人と”比較”して
「自分の事を考える」を美化しているに過ぎない。
やっている事は、人の上に立っている。
 
 
そもそも、人が人の上に立つ事。
これはそんなに悪いことなのだろうか?
 
 
歴史を見た時に君主制などを考えると
人が人の上に立つ事のリスクはある。
 
 
そのため、そうはさせない為に
法律を作り国を治める法治国家
多数存在する。もちろん日本もその一つだ。
 
 
しかし、人はその法律を活用し、
実質的に人の上に立つ事を選択する。
「法律」という強大な力を武器として
活用しているのだ。
 
 
総理大臣を始め、会社などの組織のトップ。
コミュニティリーダーも同じだろう。
多くの人が経験してきたものなら、
家族は最たるものだ。
 
 
では”平等”が実現した場合、人はどうなるか?
 
 
”平等”である「社会主義共産主義」はどうだろうか?
ソ連はその政策に限界が来て崩壊した。
中国は表向きだけ「社会主義」だが、
実質的に国民の格差は広がる一方であり、
富裕層は資本主義の恩恵を受けている。
 
 
人は、その”平等”に耐えられないのだ。
その理想は不平不満に溢れている。
 
 
そして「人が人の上に立つ事。」
それは「自分の下の存在を作る事。」
 
 
一見悪い事の様に見え、
響きも、聞こえも、あまり良くない。
 
 
では、人が”比較”をする事をやめたとしたら?
人が”平等”だったとしたら?
顔は一緒であり、考えも同じ。
こうなれば、会話がなくなり、感情がなくなる。
男と女という概念も”比較”に値する。
 
 
もはや想像もつかない世界だ。
まるで人類補完計画のような内容である。
 
 
ではなぜ多くの人は
「人の上に人は立つ」という、考えに
嫌悪感を抱くのか?否定をするのか?
 
 
嫌悪感を抱く人、否定をする人は、
”上に立つ事ができない”からである。
つまり、”下につく事”を認められないのだ。
 
 
故に、この考え方自体を否定する事で、
自身の考えを肯定している。
 
 
しかし、
”比較”を行なっている事実は変わらない。
否定をする事は、下を作ることに等しい。
 
 
結局「人の上に人は立つ」という
考えから脱することはできないのだ。
 
 
また、これを認められないのは、
その”事実”に目を背けているだけに過ぎない。
 
 
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【お前はもう・・・・”失敗”んでいる】

 
 

「やらずに後悔するなら、やって後悔しよう」
「やらない理由より、やる理由を考えよう」
「やりたい事をやらずに後悔する人生をやめよう」
 
 
独立のコーチやコンサルタントをはじめ、
成功者や経営者、トップリーダーなど・・・
 
 
自分のやりたい事を出来ずモヤモヤしている、
会社員や、主婦などの新たな挑戦する事に、
もう一歩を踏み出せない人に対して
よくかけられる言葉であるが・・・・
 
 
なぜ、こういった言葉をかけるか?
それは、
「挑戦したら人生が変わる」事を”体験”したからだろう。
同じ「”体験”の強制」をしようとしているだけである。
 
 
あまりに”主観的”な考えである。
まるで、相手のことなど考えていない。
 
 
言い換えれば、
「とにかくやれば、なんとなる!」
極めて無責任な言葉である。
 
 
行動するだけの思考停止を促している。
 
 
本質的な問題は、
「なぜ」多くの人は”挑戦しない”選択をするのか?
である。
 
 
もっと言えば、
「なぜ」”やらない”のか?
「なぜ」”やる”のか?である。
 
 
挑戦をし続ければ、理想の人生を
手にする事ができるかもしれないのに・・・・
 
 
順に説明をしていく。
 
 
もし、東京の新宿で、
100円の500mlの水を1000円で売ろうとしたら。
とてつもない、労力を伴うだろう。
というより、ほぼ売れない。
 
 
しかし、これがサハラ砂漠の真ん中で、
同じ事をしたらどうだろうか?
人が水を求めて勝手に集まってくるだろう。
 
 
人は”欲しいモノ”に対して、
「手にする」or「手にしない」
という、二択が存在する。
 
 
しかし人は”必要なモノ”に対して、
「手にする」という選択しかない。
 
 
水も、
新宿では”欲しいモノ”に過ぎないが、
サハラ砂漠では”必要なモノ”になる。
 
 
この日本でトイレットペーパーの
値段が2倍になっても、
買わない人はいないだろう。
なぜなら、”必要なモノ”だからだ。
 
 
つまり、”欲しいモノ”には
「やる」or「やらない」
という選択肢があるが、
”必要なモノ”には。
「やらない」という選択肢はない。
 
 
つまり、多くの挑戦しない人達は、
挑戦して手にする理想の生活は
”欲しいモノ”ではあるが、
”必要なモノ”ではない状態になっているのだ。
 
 
結局のところ、多くの挑戦しない人達は、
現状維持が出来ればそれでいいと思いっている。
挑戦すると”失敗”するかもしれないと考えるからだ。
 
 
この考えには、
挑戦する=”失敗”するかもしれない。
挑戦しない=”失敗”しない。
という、考えが成立する。
 
 
つまり、多くの挑戦しない人達は、
自分が”失敗していない”と考えている。
 
 
ここが一番の盲点である。
 
 
この資本主義を取り入れている日本において、
多くの人や企業は常に挑戦し進化し続ける。
逆に言えば、現状維持を選択した企業や人は、
どんどん世の中から消えていく。
 
 
数年前にテレビを売る事にこだわっていた
大手企業は買収されなくなった。
今も尚、残っている企業は新たな挑戦をやめない。
時代の流れに乗るために、必死に挑戦している。
 
 
もちろん、この流れから考えて
大手企業の社員や公務員も挑戦しなければならない。
 
 
日本でも正規雇用という制度を廃止している大企業も増え、
利益を生めない公務員は人件費だけを食いつぶすため、
現在どんどん人員も給料もカットされている。
 
 
挑戦しない全ての人に当てはまること。
 
 
”失敗していない”のではない。
もう”失敗している”のだ。
 
 
その、
「現状維持でいい」という考え。
「今のままの生活が続く」という思い込み。
 
 
もはや”失敗している”事に気付いていないだけだ。
 
 
そう。
お前はもう・・・・”失敗”んでいる。

【”騙された”ではなく”信じた”だけ】

 
 
先日の大阪の地震で、
本震に備えて食料品や水分を
この短期間で買い溜めする人がみられる。


普段から備えていない事の
証明でもあるが・・・・


この短期間で”個人のため”に
少数が買い溜めをする事により、
多数が水や食料を確保出来なくなる。


自身や家族守るのか?
あるいは大事が起きてから
困った人に配るためなのか?
意図はさておき・・・


本来は買い溜めする事なく、
大事が起きてから、
スーパーやコンビニで平等に
配った方が“全体のため”にはなる。
 
 
誰か1人でも、“全体のため”ではなく
“個人のため”と、考えて行動した場合、
“全体のため”と考えて行動した人は
「損」をする事になる。
 
 
結局は、
“個人のため”を優先する結果へ・・・・
 
 
実はこれゲーム理論で有名な
囚人のジレンマ
と極めて類似している。
下記の通りである。
 
 
囚人AとBの二人がいる。
それぞれ別の個室で事情聴取されている。
お互い話し合いをすることはできない状況である。
 
 
囚人が出来る事は2つだ。
「黙秘」か「自白」のどちらか。
 
 
そしてある条件が提示された。
 
 
片方が自白し、片方が黙認をした場合、
自白した方は懲役0年
黙認した方は懲役10年
 
 
両方とも黙秘した場合は
両方とも懲役2年
 
 
両方とも自白した場合は
両方とも懲役5年
 
 
全体的な事で考えれば、
お互い“黙秘”すれば2年と、
お互いの利益が生まれる。
 
 
しかし、もし相手が“自白“をした場合、
自分の懲役は10年になるリスクが現れる。
 
 
そのため、両方とも
“自白”の選択をする結果へ・・・・
 
 
今回の地震のパターンで言えば、
”自白”=”個人のため”
”黙秘”=”全体のため”
となる。
 
 
やはり、人は常に「損」をしたくない。
誰かの為にという考えも、
自分自身の「余裕」があってこその話である。
 
 
であるならば、日々どのように
「余裕」を作り上げておくか?が肝になる。
 
 
今回は地震についてであるが、
日々の生活はどうだろうか?
 
 
生活面・経済面・人間関係
あげればキリがないだろう。
 
 
ただ、「余裕」を作る話は多くの人が語る。
 
 
SNSを見れば目にしない日はない。
投資・投機・仮想通貨・不動産・・・・・
食事・病気・健康・ダイエット・・・・・
恋愛・対人関係・マインドセット・・・・
起業・独立・脱社畜・やりたい事だけ・・・
 
 
もはや選択肢がありすぎてどれが良いのか
わからない状態である。
”選択のパラドックス”である。
 
 
どれも自身の話の「良い」ところ
しか見せないからだ。
この見せ方にも問題はあるが、
根本的な問題は、それを”選ぶ側”にある。
 
 
どれが真に「余裕」を作るものなのか?
これを見極める”視点”こそ、
何よりも身につけるべきものである。
 
 
でなければ、「騙された」
と、わめき散らし
ネットや知り合いに、
ありもしない噂を流すのだろう。


「騙された」のではない。
ただ「信じた」だけである。
それを責任転嫁することこそ、
一番愚かな行為と言えよう。