その決断と行動は“不幸”を伴う
世の中には、本来の“意図”とは反して、
副産物、副作用とされるものが存在する。
それは“予見”として扱われる。
例えば、
血液をサラサラにするする薬を処方する。
その“意図”としては、血管が詰まらない様にするためだ。
しかし“予見”できることとして、
血管が破れた場合、止血をすることが難しくなる。
つまり、この薬の“意図”と“予見”は・・・・
“意図”:脳の血管に対して「詰まり」は抑えられる。
→脳梗塞を抑える
“予見”:脳の血管が破れて「出血」を助長することになる。
→脳出血を助長
極論の例えをしよう。
妊婦が命の危機にある。
あなたは、それを救う医者の立場で考えてほしい。
母体か胎児のどちらかの命の選択をしなければならない。
例え、どちらの選択をしたところで、
“意図”は片方の命を救う事。
“予見”は片方の命を失う事。
つまり、
“意図”=産物・作用
“予見”=副産物・副作用となる。
その決断、行動、行為を行う者は、
それを行う時に“意図”=産物があれば
“予見”=副作用される事は許される。
という考え方である。
薬を処方するのに、
熱を下げるために解熱剤を処方し、
結果的に副作用として、アレルギーで死亡したとしても、
それは許されるという考えだ。
その“予見”とされる、副作用や副産物は
「仕方のないもの」として扱われている。
しかし、疑問も残る。
見方を変えれば、他人を死亡させるために薬を処方すれば、
副作用・副産物は熱が下がる解熱に値してしまうのだ。
これは多くの事象にて当てはめる事ができる。
例えば、
昨今の起業コンサルや、脱サラを進めるコミュニティはどうだろう?
“意図”=産物 はその人の人生をよくすること。
“予見”=副産物 は、職がなくなり、生活が出来なくなること。
他にも、
投資をすすめるビジネスはどうだろうか?
“意図”=産物 は投じた額より多くの収入を得る事。
“予見”=副産物 は投じたお金は全てなくなる。
このように、物事や出来事は理想とする一つの結果を
得られるわけではない。
「二重結果の法則」
である。
絶対・正解がないこの世の中において、
その決断・行動・行為が何を生み出すのか?
は常に見極め続けなければならないし、
その“予見”=副産物が伴う事に
覚悟を持たなければならない。
そもそもであるが、
そんなことにも気付かず、
己の決断・行動・行為が
絶対に正しい、人々を救う!
という思い込みが、不幸な人間を量産しているのだ。